2017/05/06 20:30
アフリカから帰着後、空が少しだけ明るく見えるようになった。
この空は、アフリカの空と繋がっているのだと・・・
そう考えるとちょっとだけ、心に何かの希望を感じた。
でも、相変わらず私の生活は『パンのみに働く』日々だ。
朝起きて、満員電車を1時間半乗り継いで仕事へ行く。
8時間拘束の仕事をこなし、再び1時間半かけて帰宅。
これといった友達も居ない。彼氏はちょい訳アリの人。
10時就寝…そして、次の日の朝、と云う繰り返し。
休日は主に独り映画・独り博物館・独り美術館で心を癒したが、
独り暮らしに自分が休日に声を発するのは「大人1枚」だけ。
コンビニエンスストアや大型スーパーマーケットの登場で、
商店街で言葉掛け合いのお買い物などと云う時代は無くなっていた。
何となく生きていた。35歳…そろそろ身の振り方を考えた方が良いのだが、
日々の暮らしに追われるのみ。
そんな中、自分の自暴自棄なやる気なさが発端で仕事を解雇された。
致し方ないが、自業自得と云うヤツだ。
明日の家賃&パンのお金が途絶えた。やばい!やばい!
色々と面接に行くのだが、顔色に自暴自棄なやる気の無さが書いてでもあったのだろうか?
すべからく落ちまくる。
当時、『派遣』なるお仕事システムが立ち上がった時期だった。
藁をもすがる思いで登録をしてみた。登録するのは簡単だった。
向こうも商売なので、こちらのやる気を見ているのだろう。
毎日電話して「仕事ありますか?」と、一応の積極的態度を見せていた。
漸く仕事にありつけたが、日給月給の日雇いで、日々現場は変わるし、
時給800円、交通費無しである。
それでも、『仕事が有る』という事に感謝の念を抱く事を学んだ。
しかし!!!運命は私に悪戯をしかけてきた。
有る時派遣されたのは『サントリー山崎蒸留所』であった。
派遣の仕事に入る前、今はもう解雇された元職場に居た頃、
こちらの工場見学に行った事があった。
ラインの工場現場を見学するのだ。
私はその時、「この仕事は嫌だなぁ~退屈で面白くなさそうだもん」
などとのたまってしまったのだ。
元職場は3Kであったけれども女の子の憧れ花形職種だったので、
自分の中に、嫌な奢り高ぶりがあったのだろう。
今、その工場にて、私は生活の糧を施して頂くのだ。涙が出て来た。
大いに反省した。風邪を引いて辛かった体調を押してでも働かせて頂いた。
どのラインの作業も自分なりの楽しみ方などを考え一生懸命働いた。
皆様が『マッサン』でご存知の、あの『サントリー山崎蒸留所』である。
『1923年、竹鶴は鳥井とともに山崎の地に国産第一号蒸留所
(現:サントリー山崎蒸溜所、大阪府三島郡島本町山崎)を建設。
しかし、やがてウイスキー造りに対する考えの違いから鳥井と訣別し、
北海道の余市に渡り、「余市蒸溜所」を開設します。
北の大地で理想のウイスキーを追い求める竹鶴の挑戦が始まる。
この時に竹鶴が余市で興した会社が現在のニッカウヰスキーである。』
と云う話なのだが、私は偶然?…にも1990年に、
北海道余市の『ニッカウヰ スキー工場』を訪れていたのだ。
否、これはもう、偶然ではなく、必然の運命としか思えないのです。
そんな時、かつてアフリカの旅で知り合った小父様から、
「キューバへ行かないか?!」と云うお誘いが来た。
2000年アフリカの旅中に肺炎を患った私へ、抗生物質を施して頂いた命の恩人である。
即決で行く事を決めた。
さて、キューバってどんな処?…
まだキューバが日本人にさほど知られて居らず、旅行本も手に入らなかった。
独り暮らしで貧乏人の私はPCなども持っておらず、情報を入手する方法がなかったが、
兎に角行ってみる事にした。
しかし、カメラを持っていない。
前回のアフリカ旅では『写ルンです24枚撮り』という、
今となっては骨董品的価値?の趣すらある代物1個しか持つ事が出来なかったので、
どれほどのシャッターチャンスを捨てた事か…
でも、カメラを買うお金は無い。
ので、姉の夫(義理の兄)からカメラを借りるべく、一時帰郷。
未だに独りで頑張り、誰からの援助も無く、アフリカまで行って帰ってきた。
そして今度は「キューバへ行く」!!!と言う私のバイタリティーに感銘して貰えたのか?
母とは少しずつ歩み寄れていた。
そんな母が「これ…」と言って小さいけどそれなりに高性能なフィルムカメラを買ってくれた。
再び涙が出た。
今はペンタックスK-20(広角レンズ付き)やパナソニックLUMIXを持つ事が出来る身になったが、
母から貰ったこの『フィルムカメラ』は下取りに出さず、今も大切に保管している。
この時の事を忘れないように…
そして、2001年1月5日成田発キューバへ!!!!!
どんな運命の絡みが待ち受けているのだろうか?!
~後編に続く~