2017/05/06 20:54

2001年9月11日、日本時間23時30分頃、
姉と電話でくだらない話に興じていた時だ
「え?!テレビ付けて!早く!ニュースでとんでもない事が起こってる!!!」

 
WTCの衝撃的な映像が映っていた…
 
アフリカ、キューバを共に旅して来た友人がNYに留学して間もなくの事だった。
彼女の無事を確認できるのに半月かかった。
彼女は恐怖に怯えていた。
すぐにでも行きたかったのだが…私がNYに向かう事が出来たのは、
2002年3月末頃だった。
午後8時、NY上空、飛行機の中からWTC跡地から放たれるレーザー光線を見た。
 
友人は幾らか落ち着きを取り戻し、元気そうではあったが、
当時は一ケ月ほど外出が怖かったと言っていた。
NY、マンハッタンの街中は混沌としていた。
WTC周辺は、まだ瓦礫やら土埃が沢山残ったままだった。
世界中から観光客が訪れるNY…街の土産物屋には、
”その時”の写真が使われたポストカードが沢山並んでいた。
 
2週間程NYに滞在し、マンハッタン中を隈なく見て回った。
Uptown・Middletown・Downtown、Centralpark…STRAWBERRY FIELDSで追悼をした。
Grandcentralstation・BrooklynBridge・SOHO・Rockefellercenter、
Macy'sとTiffanyの前、Empire State Buildingには半日居た、ChryslerBuildingを目の前に…
Colombia University・FlatIron Building・5thAvenue・Chinatown・LittleItaly、
Liberty Island…自由の女神像の足元までは行けた(当時中には入る事は出来なかった)。
AMERICAN MUSEUM OF NATURAL HISTORYには1日中居た。
子供の頃に観た映画『GREASE』の世界、christopher・crossの
『New York city serenade』を聞いて妄想していた煌びやかな摩天楼!
憧れのNew York!超大国で世界の中心地と云う場所に今、自分は立っている。
 
若き友は言う「金髪に青い眼!憧れない?!」
「否…そんなには…」「え~?!かっこいいじゃん!」
まぁ、そうかもしれない、映画のお話しやAmericandream、摩天楼に憧れはあるが、
そういう所にポイントが有る訳ではない。
私は自分が日本人で有る事に自信と誇りを持っている。
自分の黒髪にも、黒い瞳にも、黄色と呼ばれる肌の色にも絶対的な自信と誇りを持っているのだ。
その真意は若き友たちには解らないのかもしれない…多くを語った処で疎ましがられるだけだ。
若き友たちと私とは10歳程も年が離れているのだから、生きた時代、育った時代・環境も違う。
 
旅の途中から少しずつ、少しずつ、若き友たちと意見が衝突し始めた。
ほんの些細な…本当にほんの些細な事から大喧嘩に発展してしまった。
NY留学中の若き友より紹介された店が「今一つだった」という事を、
彼女がBathroomに居る時、もう一人の若き友と話していたのだ、
それが彼女に聞こえていたらしい。
「私の居ない時に悪口言った!!!」とものすごい剣幕で怒り始めたのだ。
私は「その様なつもりでは無い、口が過ぎたと貴女が感じたのならば謝る」と誠心誠意謝罪したが…
彼女から許されないまま、二対一で私を、これでもかと云う程攻撃して来た。
その直後からNY留学中の若い方は私を完全無視したのだ。
私はこれ以上謝りようも無く、取り付く縞も無く過ごす事を余儀なくされた…
 
St.PATRICKChurchのミサに出席した、人との諍いを起こしてしまった事を懺悔すべく…
神への祈りは届かなかった(ましてや私は仏教徒ですから…)。
後半のNYは心持の悪い、気が晴れる事のない旅となった。
 
9.11以降、皆の心が沈んでいたのだろうか?神経が過敏になっていたのだろうか?
それとも攻防体制にあったのか…NYの空は灰色に見えた。
 
そんな中、色々な意味で思い出深い場所がある。
『ELLIS ISLAND』だ。
移民の島エリス島、現アメリカ国民の40%に当たる人の祖先が、この島から入国、
閉局されるまでに1700万人の移民がここから上陸し、現在のアメリかを築いた。
移民局を経てアメリカ入国した人々の姿を、様々な記録や写真などで紹介されており、
移民たちの新天地にかける夢や希望、故国への思いが伝わる。
現アメリカ在住の方達も、先祖の軌跡の記録を見に訪れる処だ。
中には小さな日本の女の子が通った記録もあり、何かしらの感慨深い思いが沸き起こる。
私にとっても又、異なる思い入れのある処なのだ。
亡くなった妹と視た『タイタニックからの引き上げ遺品展』…
タイタニックから生き残った方々も、此処『ELLIS ISLAND』 に到達したのだ。
生と死の狭間で生と死を心に刻んで、到達したと思う。「生と死の狭間…」、
そんな事等を思いながら館内を隈なく見学した。何かしらの縁を感じないではいられなかった。
そこへ、旅を共にしている若き友が私に「何?此処…こんな処、何にも面白くない!
何でこんな処に連れて来たの?!」と言い放った。
もう、何も言う気も起こらなかった。只々、悲しかった。
4月初めのNYに冷たくて凍えそうな雨が降った。
その後のNY滞在は、心此処にあらず…何を見ても只、心が疲弊して行くだけだった。
TIMESSQUAREの輝きと喧騒が意識の中の遠い所に映っているだけだった。
 
その後、私と若き友はNYを離れた。留学中の若き方とは和解する事は無かった。
今度は若き友の知り合いを訪ねてBOSTONへと向かった。
 
気持ちは塞いだままだった。Bostonの君が言う「日本が恋しい?日本に帰りたい?」
そういう訳では無い、何となく疎外感を感じていただけだ。
 
BOSTONに於いては『Cambridge University』や『旧国会議事堂』、
『FREEDOM TRAIL』を見て回った。
アメリカ独立戦争に於ける最初の銃火が交わされた場所へも行った。
(ただ、草が生え、荒れ地としか思えない何も無い平野だった)
 
今思うと、歴史的価値と意味のある場所に行っていたのだ。
アメリカ独立戦争勃発の地、ELLIS ISLAND、GROUND ZERO、STRAWBERRY FIELDS …
これらの場所を巡る事は、自分の運命の上で決して偶然などではなく、必然の事なのだ。
丁度、BOSTONに居た時、映画『SCOOP』の事件も同時に起きていたのだ。
歴史が、私に何かを伝えようとしているのだと感じずには居られない。
些細な諍いで、友だった者を2人失くした事も何かの啓示なのだろう。
 
BOSTONに3日程滞在した後、皆と別れ、私は1人でNYへ戻った。
1人で夕刻のManhattanを歩いた。
Melting pot(人種の坩堝)と言われるNY。
誰も何も気にしない。私が何処から来て、何者なのかなど…
この旅の中で、何となく今この時が一番心地よく感じた。
 
夜明け前にManhattanを出た。
昨夜の喧騒の影など一切見えないとても静かなNYも美しい。
空港へ向かうTaxiの車窓から見た夜明けのManhattanは私に語りかける、
「逃げ帰るのか?!」
確かに大都会の喧騒に飲み込まれたのだ。今の私にNYは眩しすぎる…
私にとってこの旅は『別れ』しかなかった。
 
「How about NY?」Taxidriverが問う、
「Too Big city for me」
「Come again?」
「…Maybe someday」
そう、いつか心が強くなったら、再び戻ろう…
心の中で哀愁的にNew York city serenadeが流れていた。